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東京高等裁判所 昭和58年(行ケ)66号 判決 1986年7月31日

原告

シー・アイ・ヘイズ・インコーポレイテツド

被告

特許庁長官

右当事者間の昭和58年(行ケ)第66号審決(特許出願拒絶査定不服審判の審決)取消請求事件について、当裁判所は、次のとおり判決する。

主文

特許庁が、昭和57年11月24日、同庁昭和57年審判第3361号事件についてした審決を取り消す。

訴訟費用は、被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた裁判

原告訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、被告指定代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は、原告の負担とする。」との判決を求めた。

第2請求の原因

原告訴訟代理人は、本訴請求の原因として、次のとおり述べた。

1  特許庁における手続の経緯

原告は、1971年(昭和46年)6月23日にアメリカ合衆国でした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和47年4月7日、発明の名称を「減圧雰囲気中で金属物品を浸炭する方法」とする発明(以下「本願発明」という。)について特許出願(特願昭47―35074号)をし、昭和51年8月27日出願公告(特公昭51―29703号)がされたところ、同年10月26日特許異議の申立てがあり、昭和52年8月26日明細書の補正をしたが、昭和56年10月6日、特許異議決定がされるとともに、拒絶査定を受けたので、昭和57年3月3日これに対する不服の審判を請求した(昭和57年審判第3361号事件)けれども、同年11月24日、「本件審判の請求は、成り立たない。」旨の審決(以下「本件審決」という。)があり、その謄本は、昭和58年1月26日原告に送達された(出訴期間として3か月附加)。

2  本願発明の要旨

加熱室内の減圧雰囲気中で被処理金属物品を加熱してその表面から不純物を除去し、しかる後、浸炭性ガスを周期的に2回以上前記加熱室に導入して前記浸炭性ガスから炭素蒸気を形成して炭素を被処理金属物品の表面に浸透、拡散させ、浸炭性ガスの各導入の後、前記加熱室を排気して残留ガスを除去し、加熱室への浸炭性ガスの各導入は、加熱室内に所定の炭素蒸気の分圧が得られるまで行ない、この炭素蒸気の分圧の所定の値は浸炭期間中零から前記加熱室での飽和点以下の範囲に維持することを特徴とする減圧雰囲気中で金属物品を浸炭する方法。

3  本件審決理由の要点

本願発明の要旨は、前項記載のとおりと認められるところ、本願発明の特許出願前に頒布された刊行物であるカナダ特許第692,161号明細書(以下「第1引用例」という。)には、次の事項が記載されている。

1 加熱炉内での金属材料の表面硬化方法に関し、該方法は、加熱室内をほぼ完全に真空となるまで排気する工程、金属表面に化学結合させるべき成分を有する非酸化性原料をある量導入する工程、該成分が金属と化学結合する温度以上に加熱室を昇温する工程、そして、処理材に所望の硬化層が形成されるまで加熱室を該温度で保持する工程より構成される。

2 真空下で被加工物を加熱すると、表面及びその粒子境界に吸着している不純物が除去できるので浸炭作用が促進し、従来法に比較して約半分の時間で目的とした浸炭ができる。

3 浸炭ガスとして天然ガス(CH4)を用い、圧力15inHg、温度170度Fで1時間処理した場合、浸炭層0.035in.で、すすのない光沢のある表面をもつた製品ができた。

本願発明を上記第1引用例記載の事項と比較すると、本願発明は、次の点で相違している。

1 本願発明は、浸炭性ガスの導入を周期的に2回以上に限定しているが、第1引用例には、2回以上浸炭ガスを導入することは記載されていない。

2 本願発明は、炉内における炭素蒸気の分圧を零から飽和点以下の範囲に維持することを明示しているのに対して、第1引用例には、それが明示されていない。

そこで、上記相違点について検討すると、鉄又は鋼にガス浸炭処理をする場合に、これらの金属に所望の浸炭層が形成されるまで、ガスの導入を断続的に一定時間ごと繰り返し行う方法が米国特許第1,768,317号明細書(以下「第2引用例」という。)に記載されている。もつとも、第2引用例記載の方法は、減圧下におけるガス浸炭法ではないが、浸炭工程を繰り返せば、それに応じて浸炭層の厚さあるいは浸炭量が増す傾向は、浸炭の際の圧力が減圧下でも大気圧下でも同じであるから、上記相違点は、当業者が容易になし得る程度のことである。次に、上記相違点2について検討すると、第1引用例及び第2引用例には、すすが発生しないように浸炭ガスの量を調節することが記載されており、このことは、浸炭ガスの導入量をその炭素の飽和点以下に維持することを示しているから、この点に実質的な相違は見当たらない。

したがつて、本願発明は、第1引用例及び第2引用例記載の発明から当業者が容易になし得る程度のことであり、特許法第29条第2項の規定に該当し、特許を受けることはできない。

4 本件審決を取り消すべき事由

第1引用例及び第2引用例に本件審決認定の技術事項の記載があることは認めるが、本件審決は、本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の発明との構成及び作用効果上の差異を看過した結果、本願発明をもつて右の各引用例記載の発明から当業者が容易に発明をすることができたものとの誤つた結論を導いたものであるから、違法として取り消されるべきである。すなわち、

本願発明は、浸炭性ガスを周期的に2回以上加熱室に導入の後、加熱室を排気して残留ガスを除去するという工程を要件とし、右の工程により、(1)排気の度に加熱室内の雰囲気を所定の標準状態に戻すことができるため、浸炭性ガスの各導入の量、導入回数、温度、時間等を適宜設定することにより浸炭結果を予定することができ、また、右の設定どおりに運転することにより予定した浸炭結果を得ることができる、(2)加熱室を排気する度に加工片の形状の入り組んだ個所からも残留ガスが除去されるため、このような個所も、次に導入された浸炭性ガスと良好に接触し、隅々まで浸炭され、また、加工片にピンホールがある場合のピンホール内部の浸炭も有効に行われる、(3)すすが加工片の表面に附着すると、加工片と浸炭性ガスとの接触が妨げられ、また、附着したすすが加工片に浸透、拡散するので、浸炭結果を予定することができないが、すすが発生しなければ、すすにより浸炭が影響されることもないから、浸炭結果を予定し、かつ、予定した浸炭結果を得ることができるところ、本願発明では、浸炭性ガスは複数回に分割して導入されるので、全体として多量の浸炭性ガスを必要とする場合でも、各導入における浸炭性ガスの量は、すすの発生を回避するよう容易に制御することができ、また、加熱室内に炭素蒸気が蓄積してすすが発生するような事態も生じない、という作用効果を奏するものである。これに対し、第1引用例記載の方法は、浸炭性ガスを1回導入しているだけで、浸炭性ガスを2回以上加熱室に導入した後、加熱室を排気して残留ガスを除去するという工程を欠くものであつて、第1引用例には、右の排気に関する記載はなく、また、第2引用例記載の方法も、右の排気の工程を欠くものであつて、第2引用例には、レトルト(加熱室)内のガスがレトルトの出口から逃げ出すことが記載されているにすぎないから、第1引用例及び第2引用例記載の各方法を組み合わせても本願発明の前記排気の工程の技術的思想は得られないものであり、右の各引用例記載の方法の作用効果にしても、(1)第1引用例記載の方法では、浸炭性ガスは1回導入されるだけであるから、加熱室内が標準状態に戻されることはなく、むしろ、浸炭性ガスの分解により生じる水素ガスが加熱室上部にたまつて加熱室内雰囲気が不均一になるため、加工片に浸炭むらが生じ(下の方の物品と上の方の物品とで、あるいは同一物品でも、その上部と下部とで浸炭度が異なる。)、浸炭結果を予測することができず、そこで、例えば、フアンで加熱室内を攪拌しようとしても、雰囲気が減圧下にあるため、攪拌には実効性がなく、また、第2引用例記載の方法では、本願発明におけるような排気を積極的に行つておらず、レトルト内のガスは、単にレトルトの出口から逃げ出すにすぎないから、浸炭性ガスを複数回導入すると、未だ浸炭能力を有する残留ガスに新しい浸炭性ガスを次々に追加することになり、レトルトからガスが逃げ出すのと相まつ加熱室内の炭素蒸気の分圧は不確定となり、浸炭結果を予測することができず、また、(2)第1引用例及び第2引用例記載の方法は、いずれも排気して残留ガスを除去することをしないので、加工片の形状の入り組んだ個所は新鮮な浸炭性ガスと接触し得ず、隅々まで浸炭することは不可能であり、更に、(3)第1引用例記載の方法では、浸炭性ガスは1回導入されるだけであるから、多量の浸炭性ガスを必要とする場合には、すすの発生を避けることができず、また、第2引用例記載の方法では、前述のとおり、レトルト内の炭素蒸気の分圧は不確定であるから、ここに次々と浸炭性ガスを追加しても、すすの発生を確実に回避することは困難である。このように第1引用例及び第2引用例記載の方法からは、本願発明の前記の顕著な作用効果を予測することはできない。被告は、本願発明の排気の工程は、第2引用例記載の方法の酸化性ガス導入の工程と実質的に均等であり、第2引用例記載の方法も、本願発明の効果と同等の効果を奏する旨主張するとこる、被告の右主張は、本件審決において認定判断していない新たな事実に係るものであつて、許されないものというべきである。仮に、本件審決がこの点の判断をしているとしても、第2引用例には、酸化性ガスの導入によりレトルト内の残留ガスが完全にパージされるとの記載は全くなく、また、右事項を想到し得るに足りる記載もない。むしろ、第2引用例記載の方法では、レトルト内に酸化性ガスを導入しても、形状の複雑な物品における形状の込み入つた部分(例えば、めくら穴、細孔等)、物品間の狭小な空間、レトルトの隅部等には、浸炭性ガスが残留したままであり、たとい、残留している浸炭性ガスが酸化性ガスと接触しても、接触した部分だけが酸化し、内部までは完全に酸化されず、しかも、残留浸炭性ガスは、酸化性ガスの流れに乗れないから残留しているのであつて、一部酸化されても、これが酸化性ガスの流れに乗るということはあり得ず、その部分に残留することになり、第2引用例記載の方法の酸化性ガスの導入によつては、レトルト内の残留ガスが完全にパージされることはないから、(1)レトルト隅部の浸炭性ガスの残留により、レトルト内部の全体的な浸炭性ガスの濃度は不確定となり、また、物品の凹部、細孔あるいは物品間の狭小な空間に局部的に残留した浸炭性ガスも、これら空間の浸炭性ガスの量を不確定にし、しかも、酸化性ガスによる浸炭性ガスの置換は、瞬間的に行われるわけではなく、酸化性ガスは、浸炭性ガスとの混合、酸化を行いつつ、レトルトの出口に向かつて流れるのであるから、右置換時のレトルト内各部分の浸炭性ガスの濃度は、レトルトの上部と下部、物品の形状の込み入つた部分とそうでない部分、物品間の間隔が広い所と狭い所という場所ごとに、かつ、経時的に変化するのであり、このように、酸化性ガスを導入すると、レトルト内の浸炭性ガスの濃度は、レトルト内において、全体的にも局部的にも、また、経時的にも不確定となり、本願発明のように、浸炭結果を予測し、かつ、予測した浸炭結果を得ることは到底できないものであり、また、(2)加工片の形状が複雑な場合、形状の込み入つた部分からは浸炭性ガスは除去されず、この残留浸炭性ガスが、次に導入される浸炭性ガスと加工片との接触を阻害するため、複雑な形状の物品については、隅々まで浸炭することができず、浸炭にむらが生じ、更に、(3)レトルト内の浸炭性ガスの量は、浸炭性ガスと酸化性ガスの導入を交互に反復するにつれて、不確定(残留分だけ増える。)となるため、すすの発生を確実に防止することはできない。以上によると、本願発明の排気の工程が第2引用例記載の方法の酸化性ガス導入の工程と均等であるとは到底いうことができない。なお、附言するに、第2引用例記載の方法のように酸化性ガスを導入すると、浸炭という目的に逆行する脱炭やスケールが発生するから、この点からいっても、第2引用例記載の方法の酸化性ガス導入の工程が本願発明の排気の工程と均等であるとはいえず、また、本願発明の効果が第2引用例記載の方法から予測し得るということもできない。被告は、第2引用例記載の方法の酸化性ガスの導入は、パージが完了するまでの間であるから、脱炭やスケール生成の現象は起こらない旨主張するが、レトルト内の浸炭性ガスの大部分を追い出す程度に酸化性ガスを導入するとすれば、物品の形状の込み入つた部分や物品間の間隔の狭い所に滞留する浸炭性ガスが追い出される前に、右以外の、ガスが容易に置換される場所では、今まで浸炭性ガスと接触していた物品表面が酸化性ガスと接触し、瞬時のうちに脱炭が開始することは避けられず、また、浸炭性ガスの大部分をレトルトから追い出すには、それなりの時間を要し、温度、酸化性ガスの導入時間等の条件によつては、脱炭のみか、スケールの発生まで進行する可能性がある。なお、被告は、第2引用例記載の発明においては、酸化性ガスの導入期間は厳密に定められている旨主張するが、第2引用例には、脱炭やスケール生成に関しては何ら記載されておらず、右の酸化性ガスの導入期間は、脱炭やスケール生成が起こらないように定めたものとは解されない。

第3被告の答弁

被告指定代理人は、請求の原因に対する答弁として、次のとおり述べた。

1  請求の原因1ないし3の事実は、認める。

2  同4の主張は、争う。本件審決の認定判断は正当であり、原告主張のような違法の点はない。

第1引用例には、浸炭性ガスの各導入の後、加熱室を排気して残留ガスを除去することは明白に記載されていないが、浸炭性ガスの「導入」と表面活性化のための「排気」は一体化した関係にあるから、「導入」の中には「排気」を含み、その記載があるものと解すべきである。また、第2引用例には、本願発明の浸炭性ガスの導入後加熱室を排気して残留ガスを除去する構成と実質的に均等な事項が記載されている。これを詳述すると、第2引用例には、(1)鉄又は鋼の被処理物を入れたシリンダーレトルト型浸炭炉の底部供給口より、供給を調節する弁を通じて、炭素質ガス(浸炭性ガス)が導入され、浸炭性ガスは被処理物の上を流れ、次いで、レトルト上部の出口から逸出する、(2)浸炭性ガスの流れは、種々の条件によつて定まる一定の期間保持され、次いで、ガスの供給を一時停止する、(3)浸炭性ガスが供給される時間は、被処理物上にすすが析出するには不十分な時間とする、(4)浸炭性ガスの供給を停止している間、レトルトは放置されるか、又はレトルト底部の供給パイプを通じてレトルト内に、空気、水蒸気、酸素、二酸化炭素、二酸化硫黄等の酸化性ガスが供給されるところ、酸化性ガスがレトルトに供給されると、浸炭処理の効率が大幅によくなり、酸化性ガスの導入期間中、鉄又は鋼は、有害なすすの析出なしに再び浸炭性ガスに対して受容性になる(活性化される。)、(5)この期間の終了時に、レトルトに再び浸炭性ガスを供給するが、流動期間及び非流動期間にわたる間欠的な浸炭性ガスの供給は、鉄又は鋼の所望の浸炭が得られるまで続けられる、と記載されているところ、右記載内容によると、第2引用例には、本願発明の「浸炭性ガスの各導入」の工程に相当する工程については記載されているが、本願発明の「加熱室を排気して残留ガスを除去する」工程に相当する工程については直接的な記載はないものといわざるを得ないが、第2引用例記載の方法では、浸炭性ガスの各導入の後、レトルトに酸化性ガスを導入するので、その当然の結果として残留する浸炭性ガスは酸化性ガスによつて完全にパージされ、被処理物に有害なすすの析出はなく、浸炭性ガスに対して再び活性化される(標準状態に戻される)こととなり、次の段階の浸炭性ガスの再導入に際して、複雑な形状であつても被処理物の隅々まで浸炭することができる状態になるのは明白である。そうすると、第2引用例記載の方法における浸炭性ガスの各導入の後に行われる「酸化性ガスの各導入工程」は、その作用効果上、本願発明における加熱室の排気工程と実質的に均等な工程ということができ、結局、第2引用例には、本願発明の「加熱室を排気して残留ガスを除去する」構成と実質的に均等な事項が記載されているものというべきである。次に、本願発明の効果についてみるに、本願発明が原告主張の効果を奏することは認めるが、右の効果は、第1引用例及び第2引用例記載の事項から当然予測し得る程度のことであつて、格別顕著なものではない。その理由を述べると、(1)第2引用例記載の方法は、前述のとおり、レトルト内へ浸炭性ガスと酸化性ガスを交互に導入して所望の浸炭結果を得るまでこれを繰り返すものであるから、浸炭結果を予測し、かつ、予測した浸炭結果を得ることができるという本願発明の効果と同様の効果を奏するものであり、また、(2)第2引用例記載の方法は、前述のとおり、レトルト内へ酸化性ガスを導入するものであるから、必然的に前段階の浸炭性ガスの残留ガスは完全に除去され、しかも、次の段階で再導入される浸炭性ガスの浸炭作用に対して被処理物表面は活性化された状態となるので、複雑な形状の被処理物であつても隅々まで浸炭することができるという効果を奏し、更に、(3)第2引用例記載の方法は、前述のとおり、浸炭性ガスの各導入に当たつて、すすが生じない条件を採用しているので、すすの発生を確実に防止することができるという効果を奏するものであり、また、第1引用例記載の方法も、すすを生じないよう浸炭条件を設定しているのであるから、本願発明のすすを生じないという効果は格別のものということはできない。本件審決は、以上の事実を前提として、本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の方法との対比を行つたものであつて、原告主張のような両者の差異を看過したものではない。ところで、原告は、本願発明の排気の工程と第2引用例記載の方法の酸化性ガス導入の工程とは均等ではない旨主張するが、第2引用例記載のレトルトは、ガスの底部供給口と上部出口とを備え、右供給口からレトルトに導入されるガスは、レトルト内を流れ、出口から排出されるのであるから、酸化性ガスの導入以前にレトルト内に残留していた浸炭性ガスの大部分は、導入された酸化性ガスの流れによつて押し出され、酸化性ガスと置換されるのであり、また、酸化性ガスは、一般に、浸炭性ガスと接触すれば還元されるが、逆に、浸炭性ガスからみれば、酸化されることになるところ、第2引用例記載の方法において、もしも、浸炭されるべき被処理物の隅部等に微量の浸炭性ガスが残留していれば、右の浸炭性ガスは、導入された酸化性ガスの流れと接触して、短時間に酸化されてしまい、右の酸化性ガスの流れに乗つてレトルト外へ排出されることとなるのであり、更に、もしも、被処理物の表面にすすが生成しようとしても、酸化性ガスの存在がすすの生成を防止するものである。このように、酸化性ガスの流れによる浸炭性ガスの押出しと酸化性ガスによる微量残留浸炭性ガスの酸化とによつて、残留ガスの完全なパージが行われることは明らかである。また、第2引用例記載の方法においても、残留ガスの完全なパージが行われる以上、本願発明におけるような効果を奏するものである。その理由を説明すると、(1)第2引用例記載の方法においては、二種のガスは、一定時間ごとに一方のガスのみが流れており、双方が混合されることはないから、浸炭性ガスの量あるいは組成が不確定になるということはあり得ず、むしろ、浸炭処理中は、浸炭性ガスのみが導入されるのであるから、その組成は一定しており、浸炭結果を予測し、かつ、予測した浸炭結果を得ることは極めて容易であり、また、(2)第2引用例記載の方法においては、残留浸炭性ガスは、導入された酸化性ガスの流れにより酸化除去され、かつ、それによつて被処理物表面は活性化されるので、残留浸炭性ガスが、次回に導入される浸炭性ガスと被処理物表面との接触を阻害するというような現象は起こり得ないから、浸炭性ガスは被処理物の隅々まで浸透するのであり、(3)第2引用例記載の発明においては、前述のとおり、レトルト内の浸炭性ガスの量が不確定になることはなく、隅部に浸炭性ガスが残留することもないので、すすの発生を防止することもできるのである。更に、原告は、第2引用例記載の方法のように酸化性ガスを導入すると、脱炭やスケール生成の現象が起こる旨主張するが、第2引用例記載の方法において、レトルト内に酸化性ガスを導入する時間は、当然のことながら、残留浸炭性ガスの押出しが始まつてからパージが完了するまでの時間でなければならず、もしも、残留浸炭性ガスのパージが終わつた後までも酸化性ガスの導入を続けていけば、原告が指摘するように、脱炭やスケール生成の現象が起こるようになるのは当然であり、そのため、第2引用例記載の方法においては、脱炭やスケール生成が起こらないよう、浸炭性ガスの特性、被処理材料の特性及び処理条件に応じて、浸炭性ガスを導入する期間を厳密に定めているのである。

第4証拠関係

本件記録中の書証目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

(争いのない事実)

1  本件に関する特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び本件審決理由の要点が原告主張のとおりであることは、本件当事者間に争いのないところである。

(本件審決を取り消すべき事由の有無について)

2 本件審決は、以下に説示するとおり、本願発明と第1引用例及び第2引用例記載の技術内容との構成及び作用効果上の差異についての判断を誤つた結果、本願発明をもつて第1引用例及び第2引用例記載の技術内容から当業者が容易に発明をすることができたものとの誤つた結論を導いたものであるから、違法として取消しを免れない。

前記本願発明の要旨並びに成立に争いのない甲第2号証(本願発明の特許公報)及び第5号証(手続補正書)を総合すれば、(1)本願発明は、減圧雰囲気中で金属物品に炭素を吸収させ熱拡散させることによつて浸炭させる方法であり、特に所定の浸炭層を短時間で安価に効果的に得る方法であること、(2)従来、金属物品表面に炭素を熱拡散させて金属物品の表面の化学的特性を変化させることにより硬化層を形成することは、当業者間に周知であり、例えば、浸炭による鋼の表面硬化では、鋼に吸収され拡散するに適した量の炭素を浸炭用媒体が供給することが特徴であり、本願発明以前の浸炭法としては、液体浸炭、ガス浸炭及びパック浸炭があつたが、本願発明は、特にガス浸炭に関し、処理する金属物品を、これの入つた室内にフアンで強制循環させた浸炭用雰囲気にさらすという従来の浸炭法を改良するものであること、(3)従来の浸炭法には、普通、天然ガスに含まれるような炭化水素ガスが使用され、多くのガス浸炭炉では、浸炭用媒体としての炭化水素ガスに吸熱性ガスなどのキヤリヤガスが併用され、この媒体を所定の時間と温度で炉室内に循環させるものであるところ、キヤリヤガスとして吸熱性雰囲気を使用する従来の大気圧炉は、炉から異ガスを除去して浸炭に好適な雰囲気を形成するのに、長いパージサイクルを必要とし、これは、必然的に浸炭に要する全時間を増大させることになり、この点が従来の浸炭法の大きな難点の一つとなつていたものであり、また、大気圧炉の他の欠点として、被処理金属物品がその表面に多数のピンホールを有するようなものである場合、浸炭性ガスを加熱室に導入しても、ピンホール内の圧力が既に大気圧であるため、浸炭性ガスがピンホール内に十分侵入せず、したがつて、ピンホール内まで十分に浸炭することが不可能であつたし、更に、ガス又は油で着火される従来の浸炭炉には、多帯域方式が採用されたが、この方式は、慣用の熱処理炉よりも炉のサイズを相当に大型化せざるを得なかつたものであり、更にまた、連続使用される吸熱性雰囲気が煙道から排気されるにつれて空気を汚染するために、ある種の汚染防止措置を必要とし、これが製品のコストを高めることになつていたこと、(4)そこで、本願発明は、上叙の従来の浸炭法の欠陥を克服することを課題とし、炉のサイズを大型化することなく、しかも、汚染防止措置を講じる必要なしに、浸炭に必要な時間を大幅に短縮し、かつ、ピンホールのようなガスの侵入しにくい個所をも十分に浸炭することの可能な浸炭法を提供することを目的として、本願発明の要旨(特許請求の範囲の項の記載に同じ。)のとおりの構成を採用したものであること、(5)本願発明の右の構成中第1工程は、加熱室内の減圧雰囲気中で被処理金属物品を加熱してその表面から不純物を除去する工程であつて、これにより、物品表面の不純物は容易に蒸発して除去されること、(6)本願発明の前記構成中第2工程は、右の第1工程の後に、浸炭性ガスを周期的に2回以上加熱室内に導入して、浸炭性ガスから炭素蒸気を形成し炭素を被処理金属物品の表面に浸透、拡散させる工程であつて、これにより、第1工程と相まつて、物品の表面にピンホールがあつたり、物品の形状が複雑であつても、物品の表面全体にわたつて浸炭することができ、また、汚染防止措置を講じる必要もなく、更に、短時間で浸炭することができること、(7)本願発明の前記構成中第3工程は、浸炭性ガスの各導入の後、加熱室を排気して残留ガスを除去する工程であつて、これにより、雰囲気が清浄になるので、物品内部へ拡散中の物品表面の炭素が化学反応を起こすことがなく、したがつて、脱炭することがないから、所望の浸炭量を得ることができ、また、被処理物品の周囲から浸炭雰囲気中の望ましくない分子が除去されるので、浸炭性ガスの導入と残留ガスの排気とを交互に2回以上行う場合、すなわち、パルス数が2以上の場合には、浸炭性ガスの導入の際に、炭素蒸気が被処理金属物品の表面に容易に接触して、金属物品表面への炭素の吸収を促進させること、(8)本願発明は、前記構成にみられるとおり、加熱室への浸炭性ガスの各導入は、加熱室内に所定の炭素蒸気の分圧が得られるまで行い、この炭素蒸気の分圧の所定の値は、浸炭期間中、零から加熱室での飽和点以下の範囲に維持するものであつて、これにより、加熱室内にすすが発生するのが防止され、また、被処理金属物品にも、すすが析出したり、附着したりすることなく、きれいな仕上りが得られること、(9)このように、本願発明は、その構成により、所期の目的が達成されるものであり、また、各パルスにおける浸炭性ガスの導入量(したがつて、分解して形成される炭素蒸気の分圧)、パルス数、温度及び時間(各パルスの時間、炭素を拡散させる時間)を正確に制御することによつて、浸炭層の深さ、浸炭濃度、硬さ等の点で予定された特性を有する浸炭層が得られるという優れた作用効果をも奏するものであることが認められる(右認定の事実のうち、本願発明が原告主張の効果を奏することは、被告の認めるところである。)。ところで、第1引用例が本願発明の特許出願前に頒布された刊行物であることは、原告の明らかに争わないところであり、第1引用例に本件審決認定のとおりの技術内容の記載があることは原告の自認するところ、第1引用例記載の発明が本願発明の前記第3工程(浸炭性ガス導入の後、加熱室を排気して残留ガスを除去する工程)についての記載を欠くことは被告の認めるところである。この点に関し、被告は、第1引用例における浸炭性ガスの「導入」の中に「排気」を含む旨主張するが、成立に争いのない甲第3号証(第1引用例)の記載に徴し、被告主張のようには到底解することができないから、第1引用例記載の発明は、本願発明のこの点の技術的思想を欠除するものというべきである。

次に、被告は、本願発明の右第3工程に相当する技術事項が第2引用例に記載されている旨主張するから、進んで第2引用例記載の技術内容についてみるに、原告自認に係る本件審決認定のとおりの第2引用例記載の技術事項に成立に争いのない甲第4号証(第2引用例)を総合すれば、(1)第2引用例の発明は、本願発明の特許出願前に頒布された刊行物記載のものであつて(この点は、原告の明らかに争わないところである。)、ガス処理によつて鉄又は鋼を浸炭する方法の新規かつ有用な改良に関するものであり、その目的は、炭素に富んだ炭素質ガスを浸炭すべき鉄又は鋼の上に流し、鉄、鋼又はレトルトの表面に有害なすすが沈降することなしに、所望特性の鉄又は鋼の浸炭が得られる方法を提供することにあること、(2)第2引用例記載の発明は、鉄又は鋼をレトルト内で加熱し、このレトルトに炭素質ガスを供給し、有害なすすの沈降が生じない期間、炭素質ガスを鉄又は鋼の上に流動させ、次いで、炭素質ガスの供給を中断し、鉄又は鋼が炭素質ガスに対し再び受容性になるまで放置するか、又はレトルトに酸化性ガスを供給し、鉄又は鋼の所望の浸炭が得られるまで炭素質ガスの供給と放置又は酸化性ガスの供給とを交互に間欠的に続けて、鉄又は鋼を浸炭する方法の構成を採用し、これにより、所期の目的を達成したものであることが認められ、右認定の事実によると、第2引用例記載の方法は、レトルト(本願発明にいう加熱室に相当)内に炭素質ガス(本願発明にいう浸炭性ガスに相当)を間欠的に導入するものであつて、浸炭性ガスを周期的に2回以上加熱室に導入する本願発明の工程に相当する工程を有するものいうことはできるけれども、浸炭性ガスの導入後に加熱室を排気して残留ガスを除去する本願発明の工程を欠くものというべく、また、右工程があることによる前記認定の本願発明の効果と同等の効果を奏するものとも認めることができない。そうであるとすれば、第2引用例は、本願発明の右の排気の工程に関する技術的思想を欠除するものといわざるを得ない。被告は、第2引用例記載の前示酸化性ガス導入の工程は本願発明の排気の工程と均等である旨主張するが、前認定の事実に微すれば、被処理金属物品は、その表面に多数のピンホールを有するものであるところ、本願発明は、浸炭性ガスの各導入の後、加熱室内を排気して残留ガスを除去するものであつて、浸炭性ガスの各導入は、減圧状態で行われ、その際ピンホールの中も減圧状態となつているから、加熱室内に導入された浸炭性ガスは、ピンホールの中にも容易に侵入し、浸炭が良好に行われるのに対し、第2引用例記載の方法は、本願発明のような排気工程を欠き、浸炭性ガスの導入は、大気圧状態で行われ、その際ピンホールの中も大気圧状態にあるから、浸炭性ガスはピンホールの中に侵入しにくく、その部分の浸炭は行い難いし、特に被処理金属物品が複雑な形状、例えば、めくら穴を有するような場合は、本願発明のように浸炭性ガスの各導入が減圧状態で行われるときには、浸炭性ガスは、めくら穴の奥まで均質に浸炭されるが、第2引用例記載の方法のように浸炭性ガスの導入が大気圧状態で行われるときには、浸炭性ガスは、めくら穴の奥まで達せず、めくら穴の入口附近が浸炭されるにすぎないものと認められ(叙上認定を覆すに足りる証拠はない。なお、成立に争いのない甲第13号証(昭和59年10月28日財団法人日本熱処理技術協会発行の「熱処理」24巻5号第280頁ないし第286頁)によれば、真空状態で浸炭を行うと、めくら穴内面の浸炭性が著しく改善されることが認められる。)、更に、本願発明は、残留ガスそのものを除去して気体を無くしてしまうのであるから、導入される浸炭性ガスと被処理金属物品表面との接触が容易となり、浸炭効果が良好であるのに対し、第2引用例記載の方法は、浸炭性ガスの導入後、酸化性ガスが導入されるのであるから、残留ガスが酸化性ガスで置換されるにしても、また、残留ガスが酸化性ガスで酸化されるにしても、加熱室内はもち論のこと、被処理金属物品のピンホールの中やめくら穴などの複雑な形状部分には、何らかの気体が存在し、その後に導入される浸炭性ガスは、被処理金属物品表面との接触が阻害され、浸炭に支障が生ずるものというべきであり、したがつて、第2引用例記載の酸化性ガス導入の工程は、本願発明の排気の工程と均等であるということはできないから、被告の右主張は、採用することができない。また、被告は、本願発明の作用効果は第1引用例及び第2引用例記載の事項から当然予測し得る程度のことであつて、格別顕著なものではない旨主張するが、第1引用例及び第2引用例記載の発明がいずれも本願発明の前示第3工程を欠き、これに伴い本願発明が奏する優れた作用効果を奏し得ないことは、上叙認定したところから明白であり、そうである以上、本願発明の奏する作用効果をもつて第1引用例及び第2引用例記載の事項から当然予測し得る程度のものとは到底いい難いところであり、したがつて、被告の右主張も採用する限りでない。

叙上のとおりであるから、本願発明をもつて第1引用例及び第2引用例から容易になし得る程度のものとした本件審決は、その余の点について判断を加えるまでもなく、その認定判断を誤つたものというべきである。

(結語)

3 よつて、本件審決を違法としてその取消しを求める原告の本訴請求は、理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法第7条及び民事訴訟法第89条の規定を適用して、主文のとおり判決する。

(武居二郎 高山晨 清永利亮)

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